孟浩然「洛中袁拾遺不遇」
7月7日、七夕ですね。
七夕は「星祭り」とも呼ばれ、
旧暦(太陰太陽暦)の7月7日に行われてきましたが、
現在使っている新暦(太陽太陰暦)にすると、
2020年の七夕は8月25日らしいです。
国立天文台では2001年から旧暦の七夕を「伝統的七夕」として報じています。
ややこしくなりますが二十四節気の処暑の日かそれより前で、
処暑に最も近い新月を含む日から数えて7日目が「伝統的七夕」の日となるそうです。
(ややこしい。)
しかも、七夕は韓国・台湾・ベトナムなどでもやっているみたいです。
中国が発祥で、日本に伝来したのは奈良時代に伝わったとされています。
中国から七夕が伝わる前、日本ではすでに7月7日は別の行事が行われていました。
それが「棚機(たなばた)」「棚機津女(たなばたつめ)」と呼ばれる行事です。
秋の豊作を神様に祈るために、若い女性が選ばれ、
水辺に小屋を立てて、そこにこもって神様に備える布を織りました。
このときに使ったのが「棚機」と呼ばれる織り機です。
いつしかこの棚機の行事が、中国から伝わった「乞巧奠(きこうでん)」や
織姫の話と融合していったようです。
乞巧奠(きこうでん/きっこうでん)は、
中国で7月7日の夜に行われた宮中行事。
女性たちは織姫星に手芸や裁縫、機織りの上達を願いました。
この儀式が日本に伝わり、平安時代には宮中や貴族の間に広がったそうです。
さて、今日はこちらの解説をしますね。
こちらは、孟浩然の
「洛中訪袁拾遺不遇(洛中に袁拾遺〈えんしゅうい〉を訪れしも遇わず)」
という題の五言絶句です。
出典の『唐詩選』岩波文庫版の解説によると、
題中の「洛中」とは洛陽のことで、
袁拾遺という人物については不明だそうです。
そして、「拾遺は左拾遺の略称で、天子の過失を監視し、いさめる職。この職にあった袁某が、何かの理由によって南方へ流罪となった。それを知らなかった作者が、早春のある日、洛陽の袁の家を訪問し、はじめて流されたことを知って、同情と慰問の心をこめて作った詩。」とあります。
洛中袁拾遺不遇 孟浩然
洛陽訪才子
江嶺作流人
聞説梅花早
何如此地春
洛陽の町へ才子をたずねて行ったところ、
江嶺のあたりへ流罪の身となっていた。
その地では梅の花のほころびるのが早いということだが、
ここ洛陽の春とくらべて、どんなものであろうか。
江嶺 … 揚子江・五嶺の地方。
聞説 … 「きくならく」と読む。聞くところによると。
聞 … 『元禄刊本』では「見」に作る。
此 … 『全唐詩』では「北」に作り、「一作此」とある。
『四部叢刊本』『四部備要本』『唐五十家詩集本』では「北」に作る。
梅の花は中国では古代から愛好され、日本にも伝来し、
それが『万葉集』の頃の日本人を「梅の花見」に熱中させたのでした。
友人の心情とその土地の梅の花とを思いやる作者の、
はるかな思いが感じられられます。
孟浩然も李白・杜甫たちと同じく盛唐期(玄宗の先天元年〈712〉から、
代宗の永泰元年〈765〉までの約50年)の詩人ですが、
その頃は日本では奈良時代だったということを考えると、
こういう中国大陸の詩人たちの心情と、
『万葉集』等に表現された日本人の心情が
同じ時代に表現されているということは、
文化の交流も含めて、何となく感慨深いものがあります。
今は携帯電話やらSNSがありますから、
久しぶりに会ったお友達でも、
昨日も会っていたかのようにお話出来ますよね。
SNSだけで繋がっていて、実際会うのが初めましてでも
初めて会った感じもしないです。
テクノロジーすごい。
織姫と彦星にもiPhone持たせてあげたい。笑
昔の曲とかで、待ち合わせしてたのに来なかった的な
すれ違いラブソングたま〜に聞きますけど、
ちょっと混んでて15分遅れるとかの連絡も出来ないなんて
ソワソワしちゃいますよね。
昔の人はちゃんと待っていたのでしょうか?
GoogleMapとかもないから、
電車の乗り換えとかも大変だっただろうし。
(私GoogleMapないと目的地にたどり着けません。。泣)
テクノロジー無しで海外旅行なんて怖くて絶対いけないです。汗
iPhoneないだけでかなり不安になるタイプです。