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「道」

CAMPFIREでは、私のオンラインサロンのマークを
円相にさせていただいていますが、
この前、初めて作品として「円相」を制作させていただきました。

滲みやすい色紙に書いています。

「円相」については、前のブログで紹介しています。

結構好評で嬉しかった。

そういえば、着付けのお教室もひと段落したので、
次は茶道のお教室にいこうと思っていたんですね。

教室選びで、体験レッスンに行ったりしていたところ
コロナが流行ってしまい中断してしまいました。

そろそろお稽古再開しているお教室もあるので行きたいな〜って
思ってるんですけど、、、大丈夫かな?



10年以上前に少し茶道(裏千家)を習ったのですが、
何も習得していません。
(何かの許状はもらいましたけど、もっと茶道から体感する何か)

日本文化には茶道や華道、剣道や弓道、
合気道など「道」と名のつくものが多です。



一言でいえば、「道」とは、
伝統的な技の上達のために修行を積むというプロセスであり、
師範や教授といった指導者を育成するプロセスでもあります。
ひとつの流派に入門し、一人の先生について日々修練して、
師範や教授の資格取得を目指す。

ところが「道」において修練する目的は
技の上達では無いという話をよく聞きます。
教授や師範と呼ばれる程に技を習得するために修練しているのに、
技の上達が目的では無いというのは矛盾しているように聞こえる、、。



例えば、弓道では「真・善・美」、
柔道では「精力善用、自他共栄」を目指すものと言われています。
ほかにも「無心である」ことや「人間力」、「精神的豊かさ」といった言葉も。
この様に修練を通して人として成長し、
人格者になることが多くの「道」における目的なのかと思います。

道の共通点は「型」から入ること。


「道」の共通点として、技を習得するために
「型」から入るという点に注目する。
入門すると初心者は基本の型を身体が覚えるまで理屈抜きに繰り返し修練する。

ドイツ哲学者オイゲン・ヘリゲルの名著『弓と禅』でも、
日本の稽古法は「無条件に形に習熟する」と説明し、
師匠は教えや理由づけを嫌い、ただ指示するだけだと述べています。 
ヘリゲルは日本で弓道に入門しますが、
当初は型から入るスタイルに戸惑っています。
理屈抜きに基本の型をたたき込まれるスタイルは、
今となっては時代遅れと感じるかもしれません。



型から入る「道」は効率、つまり短期習得を目指していない。
その目的は、「身体が覚えている状態」にもっていくこと。

身体が覚える状態とは、
頭で考えなくても身体が動く状態であり、
「間違いなくできる状態」よりも習熟度は高い。


「道」を通して理解すべき
「真・善・美」や「人間力」「精神的豊かさ」といった
概念的な価値観の意味を最初に人に説明されて理解しても、
他人の言葉による定義にしかなりません。
それではまだ他人事。
それを自分で気付き、自分のものにする。

そのためには、何回と稽古を繰り返すしかなく、
それができる頃には師範や教授という資格が得られるほどの時間が経っていることになります。

そして人は「道」での経験に価値を感じるのだと、私は思います。

茶道を通して何を感じるのか、すごく楽しみです♡