真の伝統主義者
もう水曜日。。。
と言うか、いつの間にか6月になっていましたね。
2020ハッピー二ューイヤー!が、ついこの前に感じます。
大人になると時間が早く感じるって言いますけど、
正直、私は子供の頃から体感変わっていません。笑
「日本人にとって美しさとは何か」-高階 秀爾 (著)
福澤諭吉の「国の光は美術に発す」という一句。
この一句には、福澤の思想が端的に表明されています。
「国光」というのは、文字通り一国の光栄とういうことでしょうが、それは政治的な影響力や経済力、軍事的な強さを意味する物ではありません。明治初年(1868)西欧先進国の文物、社会の進展繁栄を調査するために欧米諸国を歴訪した岩倉使節団の足跡を詳述した九米邦武の「米欧回覧実記」が「観光」とう言う言葉が意味する「光」、つまり「文明の光」の事に他なりません。
一国の文明度は何よりも「美術」に体現されるというのが、その言わんとするところです。
このような思想は、明治22年(1889)美術雑誌「國華」創刊の「それ美術は国の精華なり」と宣言した岡倉天心の考えと極めて近いものになります。この点においては、近代合理主義者であり、西欧を模範とした文明開花の推進者である福澤と、ときに伝統的主義者と見做される天心とは、意外に近い場所に立っていた事になります。
ここで注釈を加えるならば、福澤の時代「美術」と言うものはきわめて新しいもので、その意味はかなり揺れ動いています。江戸期以前の日本においては、美術品は多数存在していましたが「美術」と言う単語は(それが意味する概念は)まだ生まれていません。
この「美術」という言葉が初めて登場するのは、明治6年(1873)ウィーン万博への参加を呼びかける告知ぶんにおいてですが、そこでは「美術」は、絵画や彫刻のみならず、音楽、詩歌(文学)も含んでいました。つまり現在ならば「芸術」と呼ぶべきもののことです。
福澤は、「福翁自伝」のなかで、自ら「無芸無能、書画はさておき骨董も美術品も一切無頓着」と述べています。しかし福澤がその生涯で一度だけ美術品をまとめて買ったとも「福翁自伝」に述べられています。
あるとき日本橋の知人の家を訪れると、座敷に「金屏風だの蒔絵だの花活だのの一杯に」並べられていました。聞くとアメリカに輸出するのだという。そこで欲しいものは一つもなかったが、外国に売るくらいなら自分が買うといって、2,200〜300円で全部買い取ったそう。つまり福澤は、それらの美術品に惚れ込んで手に入れようとしたわけではなく、買った後でも「その品をみて楽しむではなし、品柄もよく知らず数も覚えず、ただ邪魔になるばかり」と、はなはな冷たい。福澤にとっては、「国の光」がある美術品が外国に渡ることは、まるで日本の一部が切り売りされるうような思い出あったのでしょう。
彼が明治というこの大きな変動の時代において、西欧文明の摂取を強く主張したのも、日本を西欧諸国と同じものにしようとしたからではなく、逆に、近隣アジアの諸国が次々に列強帝国主義によって、植民地化されていく実状を冷静に見据えて、日本がその本来の姿で独立して西欧諸国と相対するためには、どうしても必要な道だと信じたからである。そしてその日本の姿を支えるもの、つまり日本人アイデンティティーを保証するものこそ、広い意味での「美術」にほかならなかったのです。
明治15年(1882)「時事新報」の社説として12回にわたって掲載された「皇室論」で福澤は、
皇室は直接統治の衝にあたるのではなく、「政治社会の外に」立って、国民全体の心の依りどころ、その精神を支えるべきだと説き、その役割としては「高尚なる学問の中心となり、兼ねて又諸芸術を保存して其哀頽を救はせ給ふ可き」であると論じた。
つまりかつて歴史上そうであったように、
学問芸術のパトロンという役割を皇室に期待したのである。
ここで福澤が「保存」を主張している「諸芸術」とは、長い歴史の中で培われてきた、「日本固有の技芸」、さらにいえば「日本固有の文明」であって、まさしく「国の光」にほかならない。
旧制打破の主導者であり、
急進的な欧化主義とのみ見られがちな福澤諭吉だが、
こと「美術」に関しては、
歴史の愛と敬意を失わない真の伝統主義者でありました。
LESSON4だッ!「敬意を払え」ッ!
「スティール・ボール・ラン」 11巻 ジャイロ・ツェペリ
実は今、1ヶ月間ジョジョ祭りの「ジョジョ月間」です。