欧陽詢「皇甫誕碑」
東京都も緊急事態宣言が解除されましたね。
まだ油断は出来ないですが、落ち着いてきてなにより。
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意味が知りたいとコメントをいただきました。
まず、こちらのブログを読んでないようでしたら
こちらからお読みください。
「読めません泣」 | MAY YOU
みなさんご存知の通り、私はInstagramに書道の写真をあげています。適当に書いてみたモノだったり、作品だったり、臨書だったり。サイズも様々ですが、特に多く寄せられる 「読めません」というコメント。 …
今日は、欧陽詢「皇甫誕碑」臨書の解説です。
今回の課題は結構な枚数書きました。笑
楷書は全てが曝け出されるので…泣。
私は中国書法ガイドを見て参考にしています。
初唐の三大家の一人欧陽詢(おうようじゅん)が、
虞世南(ぐせいなん)とともに楷書の典型を確立しました。
彼には楷書の名作が多く、碑書はかつて二十余種を数えましたが、
現存する作例としては四碑です。
このうちの九成宮醴泉銘は“楷法の極則”と絶賛されています。

今回臨書課題として発表されたのは、「皇甫誕碑」の方。
この碑は隋王朝に仕えて誠節の名臣の一人であった皇甫誕(こうほたん)を、子の無逸(むいつ)が顕彰した頌徳碑です。碑文は28行、毎行59字に区画され、細身に陰刻されています。

こんな感じで約5ページ。
全部で約1600文字あるらしい。笑
51歳の時、諒の軍に破れて皇甫誕が殺害されました。隋の煬帝はその死節に感じ、深くこれを悼み、柱国左光禄大夫を贈り、明公と諡された。やがて唐代に、その子無逸の建立したのがこの碑です。もっともこの日には立碑年月の記載がなく、その年代がとかく問題となっています。顧炎武(こえんぶ)は貞観の始めと言い、羅振玉(らしんぎょく)は貞観17年と言いますが、種々の説があり年月を確定する事ができません。
欧陽詢は湖南長沙の出身で、当然のことながら南朝伝来の王羲之の書を倣いました。
青年期には黄庭経を学び、後年には蘭亭叙を臨摸しています。
用筆を単純化して表現を内輪にセーブし、その結体は晋法に叶い、いわゆる南朝の整斉な特徴を得たものであるが、後年の書風はまた険勁の趣を賞される。点画の厳しさ、背勢の佇まい、切れ味の良さは、一見北派の影響を加味したものと思われますが、北派とか南派とかいう区別を越えて、旧来の間架結構法をまったく新しい構築に組み替えてしまったと言えます。いずれにしても、隋唐にかけて洗練された書体の上に、新たな境地、風格を開拓したことだけは間違いなさそうです。
課題部分は、「門承積慶世挺」。

原文だと、
「門承積慶。世挺偉人。」
半紙6文字の臨書なので、「偉人」の部分は切られています。
訓読だと、
門は積慶(せきけい)を承け、世よ偉人を廷す。
釈文だと、
一門は余慶をうけて、いつの世にも偉人がはえでた。
単純な意味としてはこれですね。
皇甫誕碑は、右上がりがとても強く、字形が緊密というか緊縮されている感じがして、筆画も極めて勁烈です。これらの特徴は、北魏の張猛龍碑(ちょうもうりょうひ)にもみる事ができます。つまり、文字の内部に力を凝縮させて、伸ばした手足によって外部に空間をとり、その微妙に巧みな均衡感覚によってゆったりとした姿体に見せています。
理知的な上に風格があがり、まさに欧書以外のなにものでもありあません。

中:九成宮醴泉銘
下:張猛龍碑
右払いの比較。
皇甫誕碑の右払いは九成宮よりも厳しい感じがします。
いったん止まりそして右横へ思い切り払い出します。

点。
点の筆法は書の原点です。私は苦手です。笑
点と線の組み合わせが文字であり、文字の組み合わせが書になります。
落とした筆に弾力を付けて、持ち上げたり節をつけて右下へおろしたり、起筆の方向を変えたりすることによって表情が異なってきます。

ハネ。
ハネは九成宮より鋭く、どっしりとハネています。
「爲」「風」は、九成宮よりかなり意識的にきびしく空間を切っています。
比較って楽しいですね〜。
皇甫誕碑・九成宮醴泉銘・張猛龍碑
全然臨書していないので、ちゃんとやらないとなぁー。笑
(毎回言ってる気がする…)